最後の授業。

最後の授業。

  2019/4/3  
     
 

 

父が亡くなった。

 

 

布団に横たわる父の顔はとてもきれいで、今にも「なーんちゃって!」と起き上がってくるのではないかと思い、なんども顔をピチャピチャと叩いて確認した。

 

八代亜紀のファンだった父とのエピソードは、これまで何度かこのブログに書いてきた。

 

このたびのいきさつなどについてもあれこれ書いてみたいと思うが、なにせ死後10日ほどしか経たず、あまりおもしろおかしく書くと、恨みを買って枕元に立たれてもかなわないので、せめて四十九日が過ぎてからにする。

 

 

 

松江市で行った葬儀には、セブンティーンの息子も同席した。

 

このセブンティーンは、小学生のときに叔母の死を経験したが、このときは、火葬が終わった叔母の姿に涙は無く、ただただ驚くばかりであった。

 

中学生のとき経験した叔母の死は、特にかわいがってもらった叔母だったこともあり、死に別れる哀しさを全身で味わうことになった。

 

そして、このたびは祖父の死に直面し、いつか必ずやってくる死というものをより身近に感じるとともに、生きることの儚さや大切さを学んだのだと思う。

 

おそらく、棺に横たわる祖父の姿に私を重ね、喪主として挨拶をする私に我が身を重ねたに違いない。

 

 

 

 

親は自らの死をもって子に最後の教育を成すというが、お坊さんが通夜の席で述べた言葉に代えて、父から私への最後の授業が終了した。

 

 

 

「死因はね、生まれてきたことです」

 

 

 

 

わかってはいるが、あまりにも切ない。

 

 

それが人生―。

 

 

 

   

 

 

 

  林 正寛