後悔。

後悔。

  2022/10/25  
     
 

 

 

私は子供のころ、父と一緒に遊んだ記憶が無い。

 

昭和ひとケタ生まれで、海軍甲種飛行予科練として従軍した経験のある父は、「娯楽」とか「団らん」とかからは遠い距離のところにいる、そんな人だった。

 

1963年生まれの私は、ドリフターズを見て育ったまさに昭和の子なのだが、8時だヨ!全員集合で加トちゃんがピンク色のスポットライトの中登場し、悩ましい音楽とともに「ちょっとだけよ」が始まると、父が「くだらん!」と怒りだし、ときにはテレビを切られた。

 

「アンタも好きねぇ」が見たかったのに・・・。

 

 

 

1992年3月。私は、東京から広島に転勤になった。

 

父は、ちょうどそのころ、郵政省を定年退職後、広島の天下り先企業に顧問として勤めていて、ある日、仕事帰り、ふたりで食事に行ったことがある。

 

互いに酒を飲みながら、どんな会話をしたのか覚えていないが、事件は、2軒目のお店で発生した。

 

場所は、広島一の歓楽街「流川」にある父の行きつけのスナック。カウンター席だけのこじんまりした店だった。

 

 

父は、八代亜紀と青江三奈のファンで、ふたりが出ている歌番組は、機嫌よく見ていたが、そのスナックのママさんは、まさに父が好きな女性のジャンルの人だった。

 

ドアを押して入ってきた父の姿を見るなりママさんは、満面の笑顔とこれまた父が好きであろうややかすれた声で、「ハヤシさん、いらっしゃい」と迎えてくれたが、私の姿を発見すると、また、かすれた声で「あらぁ?」と大げさに驚き、父が照れくさそうに、「私の息子です」と伝えると、「まぁ!」と、もう一度大げさに驚いて見せた。

 

長いサラリーマン生活の中、娯楽の喜びを覚えた父は、それからしばらく、楽しそうに飲んで歌っていたが、宴もたけなわ、「父さん、そろそろ帰ろうか」と声をかけた。

 

うちには、東京から実家のある大阪を通り越し、しかも近くに姑が住む広島に来てしまった家人が待っている。今ごろはもう、家の中は凍てついてしまっているかもしれない。

 

「父さん、帰ろうや」

 

「マサヒロ、もうちょっといいだろう」

 

「いや、もう遅いし、早く帰らないとマズいから」

 

酔っぱらいの父は、私の肩に大きく腕を回し、

 

「ちょっとだけ、ちょっとだけよっ」

 

「と、父さん、それって・・・」

 

 

 

 

9月の彼岸の中日、約1年ぶりに島根の納骨堂に参ってきた。

 

父が好きだった酒の小瓶を供え、手を合わせると、1992年の「流川」の記憶が蘇り、あのとき、言い返せなかった一言を、遺影に向かってつぶやいてみた。

 

― アンタも好きねぇ。

 

 

 

 

父が亡くなり3年。

 

後悔ばかりの3年。

 

  

   

  

    

 

 

 

  林 正寛