ヒロシマ(№774)
2025/8/7 | ||
広島のあの夏から80年。
広島市の地元の高校生が大学の講義に登壇し、核廃絶を訴える姿がテレビに映し出されているのを見て、こんな若い世代の人たちにまで核廃絶という大きく重たいテーマを引き継がせてしまうことが申し訳なくて泣けてきた。
私の父は、単身赴任で長く広島市に勤務をしていたため、私は、幼いころから定期的に母に連れられて広島を訪れていたので、私の幼いころの風景の一つに原爆ドームと平和記念公園がある。
そして、その後、私自身も広島市に勤務することになり、幼いころの風景が日常となって心に刻み込まれた。
だから、何かをしたわけでもなく、むしろ何もしないまま、ただ「ヒロシマ」を眺めてきたにすぎないが、「ヒロシマ」は、私にとって至近距離にある。
「100人が反対しても一人のヒトラーが現れれば戦争は始まる」
先の大戦で満州のソ連国境に配属された経験を持ち、日本の美術界を牽引してきた野見山暁治さんは、平和の尊さを訴えた。
もちろん、ネバーギブアップではあるが、残念なことに、世界の動きは明らかに核廃絶とは反対方向に動いている。
今も世界のあちらこちらに色のない悲惨な光景が広がっている。
この夏、大阪では、「大阪・関西万博」が盛況だ。
連日、ニュースやSNSから、その賑やかさや華やかさ、わくわくとした感じが伝わってくる。 万博のテーマは、「いのち輝く未来社会のデザイン」だ。
あの夏から80年目の日、「ヒロシマ」と「大阪・関西万博」を同じニュース番組内で放送しているものを見て、違和感を覚えた。
過去と未来、または影と光とでもいうのか、テーマは対極にある。
しかし、今と未来は確実に過去と地続きにあり、過去なしでは未来は語れない。
そう考えると、大阪・関西万博のパビリオンに「ヒロシマ」を持ってきても良かったんじゃないか。 せっかく、世界中、日本中から人が来てくれるなら、未来に続く忘れてはならない「ヒロシマ」を見てもらういい機会だったようにも思うが、飛躍がすぎるか・・・
暦の上では、今日は立秋。 猛暑が一服し、風に秋を感じたのは気のせいだろうか。
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林 正寛 | ||