57歳のお願い。

57歳のお願い。

  2020/12/12  
     
 

 

 

初代林久右衛門は、嘉永2年(1849年)に生まれた。ペリー来航の4年前である。

 

時の将軍は、12代徳川家慶。明治維新まであと19年。幕末である。

 

林家は、島根県の石見銀山近くに醤油醸造販売業を営み、たくさんの女中を抱え、とても栄えていた。

 

明治9年に建てた屋敷は、何千坪あったであろうか。

 

その後、町に切り売りし、数百坪ほどが残ったが、それでも当時の荘厳さはそのままで、見事な梁と蔵の魔除け(鏝絵)は、つい最近まで、観光スポットにもなっていた。

 

久右衛門は、自営の傍ら、地元に銀行や郵便局も創設して、自身は頭取に就任するなど手を広げ、また、当時、雨が降るたびに氾濫を繰り返していた江の川の治水工事にも奔走した。

 

明治・大正期の文人画家で儒学者の富岡鉄斎とも交流があったようで、いくつかの書簡がのこされている。

 

 

2代目と3代目は、能吏の人であった。

 

ともに長らく郵政省に従事し、ともに瑞宝章を授与している。

初代とは毛色は異なるが、名誉なことである。

 

 

そして、問題の4代目。

 

本来、兄がなるべきところ、幼くして亡くなったため、私が継いだ。

 

3代目までが140年以上守り続けてきた屋敷は、昨年、父が亡くなり、ついに空家となったが、大阪からは車で往復700キロある。とても維持管理はできず、この度、手放した。

 

古物や古文書は、町に寄贈した。

 

また、このタイミングで菩提寺が納骨堂を建てたのをこれ幸いと、ロッカーのような一画を購入し、初代久右衛門も眠る林家の墓を仕舞い、代々まとめて納骨した。

 

業者が墓石を倒していく様を見たときは、やや動揺したが、後戻りはできない。

 

私が亡くなった後のことを思えば、子どもらに屋敷や墓の負担をかけるわけにはいかないので、この冬が来る前に終わらせようと決断したことではあったが、簡単ではなかった。

 

年よりも少し若く見られるのが自慢だったが、あっという間に、白髪とシワが増えた。

 

 

 

 

3代目までとその妻たち、また、その子らが今、狭い一画でひしめき合いながら、歴史を終わらせた4代目のことをゴウゴウと非難しているに違いない。

 

とてもじゃないが、あの世で合わせる顔がない。

 

 

 

 

そして、私が死んでも、お願いだからあのロッカーへは入れてくれるなと、5代目に頭を下げた12月12日。

 

 

嗚呼、57歳の誕生日。

 

 

 

 

 

   

 

 

 

  林 正寛