夏の夜。

夏の夜。

  2021/8/23  
     
 

 

 

コロナ禍、父と母の1周忌法要も3周忌法要も見送り、今年のお盆のお参りもできなかった。

 

昨年は、合間を縫って、屋敷を売却し、菩提寺が建立した納骨堂の一画を購入して墓じまいをしたが、納骨には立会えず、以後、私はまだ一度も納骨堂へお参りができていない。

 

先祖が150年守ってきた家と墓を私の代で終わらせてしまったことについて、あらためて釈明したいと思うのだが、コロナに阻まれてきた。

 

 

「みんなわかってくれてますよ。あなた、気にしすぎです」

 

家人が言うように、大阪からでは管理はできず、家や墓を朽ち荒れさせるよりはずっといい。私が亡くなった後の子どもたちへの懸念もなくなった。

 

わかってはいるが気にはなる。

 

 

 

お盆のお参りができないことをお寺に連絡を入れた。

 

「納骨堂は、基本的にはお寺にお任せするものです。日頃から故人を偲ぶ気持ちを忘れなければ、お参りは必ずしなければならないものではありませんよ」

 

お墓を必要としているのは、むしろ遺された者であり、遺された者が亡くなった人への哀惜の念や自身の来し方行く末を思い、自分に折り合いをつけるために手を合わせるのだろう。

 

だから、私としては、手を合わせ、折り合いをつけたい。

 

 

 

仕方がないので、13日のお盆初日に、初代、2代目とその妻たち、叔父、叔母など、手許にある古い写真を引っ張り出してきて、日頃枕元にある父と母の写真の周辺に並べてみた。

 

江戸から明治、大正時代を生き抜いた初代とその妻の写真は、なんの記念に撮影されたものかは知らないが、威厳に満ちあふれている。当時の写真なんてみんなそうなのだが、笑っているものなどない。

 

それでも、これだけ揃うとなかなかにぎやかでよい。

 

写真を前に線香を立て、手を合わせると、少し気が楽になった。

 

 

 

「あなた、大丈夫ですか」

 

日が暮れると、私の枕元に居並ぶセピア色した古い写真たちは、「夏の夜」にはサイコーのシチュエーションとなり、私を見つめている。

 

私は、前世の行いがよほど悪かったのか、ときどき、悪夢にうなされることがあるので、家人は心配していたが、せっかく出した写真を仕舞うのも面倒だし、第一、私の先祖、親族である。

 

「あははは、大丈夫に決まってるやろ」

「ご先祖様もたぶん喜んでるだろうから」

「今夜は、いい夢が見られそうだ」

 

 

 

 

強がって寝たが、結局、その夜、うなされた(白目)

 

 

夏の夜。

   

  

 

 

   

 

 

 

  林 正寛