心の眼。
2016/01/18 | ||
昨年、ある神社へ立ち寄った際、掲示板に「子育て四訓」なるものが張り出されていた。
一、乳飲み子からは肌を離すな
二、幼児は肌を離して手を離すな
三、少年は手を離して眼を離すな
四、青年は眼を離して心を離すな
子育てにおける親と子の絶妙な間合いを上手く表現しているが、この間合いを維持することが難しい。
中でも難しいのが、「少年は―」の頃だろうか。
うちの子どもは、学校の授業についていけているのか。
何か悩みを抱えてはいないか。
学校でいじめにあってはいないか。
おかしな虫がついていないか―。
親は心配でたまらないので、なかなか手が離せないが、一方でこの時期子どもは子どもで、成熟し切らない心と体のバランスを取ろうと懸命になる。つまり、自立に向かって歩み始めるので、子どもは親の干渉が鬱陶しくてたまらなくなり、大抵の親子がそこで衝突する(もちろん個人差はありますよ)。
親は放っておけばいいのだが、手が離せない親は、子どもの先回りをしてどうにかして振り向かせようとするから、今度は甘やかしになる。すると子どもは、「ああ、大人とは、世間とはこんなものか」と自立を忘れてしまう。
私は、親の役目とは、子どもに生きる力をつけさせること、つまり、子どもがこの先いかにして人とつながり、コミュニケーションを取りながら社会で生きていくことができるかトレーニングをさせることであると考えている。
そのために大切な、人を思いやる心や譲る心、人の痛みを理解できる心を育ててあげれば、子育てはほとんど終わったようなもので、あとは本人に任せておけばいい。
勉学も大切ではあるが、勉学は子育ての中のひとつの手段でしかなく、漢字とか英語とか数式なんてものは後でどうにでもなる。心がきちん育っていれば、学校の成績など少々悪くたって十分生きていける。
ただ、現実はそうも言ってられないし、社会の風潮も理想形に対し逆風が吹いている。
私の頃は、学校で先生に叱られたことをうっかり親の前で口をすべらせようものなら、理由も聞かずに、「うちの子が悪いことをしたようで、先生、申し訳ございませんでした」と、親は教師に謝りに行ったものだが、今の親は反対に、子どもを叱った教師に頭を下げさせに行く。 おかしな時代になったものだ。
子どもを甘やかすのもたいがいにしろと言いたいが、親が未熟すぎるのだろう。
子育ては、親自身が成長することでもある。
子どもから肌を離し、手を離し、最後は眼を離したとしても、決してぶれることのない子どもに対する強い心(愛情。絆でもいいが)を親自身が構築していく過程が子育てであると考える。
だから、過保護や過干渉は、親自身が成長できていない裏返しの表現であり、親のエゴに過ぎず、愛情のようで愛情ではなく、ただ子どもがアホになるだけである。
子どもから手を離し、眼を離すのは、なんとも心許ないが、親にしかない心の眼で子どもの成長を見守ってやって欲しい。
子どもは親の所有物でもなければ分身でもない。
子どもは社会の宝なのだから。
|
||
林 正寛 | ||