地下鉄物語。

地下鉄物語。

  2017/6/14  
     
 

地下鉄が東梅田駅に着くと、多くの人がドッと乗り降りする。

 

もう夜の9時だというのに、混雑は収まらない。

 

スマホをお守りのように握り締めながら乗車してきた人たちは、我先にと空席を奪い合う。

 

ここから終点まで乗車したとしても、わずか20分ほどだというのにだ。

 

 

空席の争奪戦が終わり、ドアが閉まる寸前に老夫婦が乗り込んできた。

 

夫が車内を見渡し、もはや座る席はどこにもないことがわかると妻の手を取り、ドア付近にある鉄の棒を握ってここへ立つよう促した。妻は表情を変えることなく、夫にしたがった。

 

席の確保を終えた大人たちは、安心顔でスマホを目の前に置き、すでにその小さな世界に入り込んでいるため、だれも老夫婦に気がつかない。

 

 

 

 

 

そのとき、小学4年か5年くらいだろうか。

少しだけ茶色がかったサラサラの髪の毛の下で大きな目を宙に漂わせながら、いかにも眠たそうな表情で座っていた少年が、老夫婦に気がつくと目をパッと見開き、腰を浮かせ、恥ずかしそうに顔を赤く染めながら、小さな声で「あの、どうぞ」と老夫婦に声をかけた。

 

 

はじめ老夫は、「いいから、いいから」と遠慮をしていたが、少年が座ろうとしなので、「座らせてもらおうか」と妻に声を掛け、少年にお礼を言い、そこへ妻を座らせた。

 

 

すると、少年の横に座っていた40代くらいのサラリーマンが事態に気づき、無言のまま立ち上がった。

 

老夫は、「あっ、いや」と小さく叫び、サラリーマンを止めようとしたが、サラリーマンは、すぐにスマホに目をやり知らん顔を決め込んでいる。

 

あきらめた老夫は、ついさっき席を譲ってくれて横に立っている少年に座るよう促した。

 

少年は、ためらっていたが、老夫がニコニコしながらさらに「どうぞ」というと、素直にしたがい、「ありがとうございます」とお礼を言い、席に座った。

 

少年は、結果的に席を譲ってもらう格好になったサラリーマンに目を向けたが、サラリーマンは、スマホを見つめて動かない。

 

 

それから4駅ほど行ったところで、老夫婦は少年にもう一度お礼を言い、地下鉄を降りていった。

 

すると、少年は、すかさずサラリーマンの背広の裾を引っ張り、目をクリクリさせながら「空きましたよ」と言って、隣の席を手のひらでポンと叩いた。

 

サラリーマンは、ややバツが悪そうに無言で席に座わり、そしてすぐにまたうつむき、スマホに目を落とした。

 

 

少年は、すぐ次の駅で地下鉄を降りていった。

 

サラリーマンは、チラッと少年の背中を目だけで追うと、スマホを握りしめたまま、なにやら物思いにふけったように地下鉄の天井を見上げて動かなくなった。

 

 

地下鉄が終点に近づいていることを車内放送が告げると、大人たちはようやく、ひとり、ふたりと小さな世界から戻ってきて、周囲をキョロキョロと見渡す。

 

しとやかで品のある老夫婦、優しくて天真爛漫な少年はすでにいない。

 

その小さな世界には、なにが見えた?

 

 

地下鉄が終点に到着した。

 

降りようとする人の横をすり抜け、ホームにいた人たちが勢いよく乗車してきた。

 

手にはスマホがお守りのように握られている。

 

 

 
  林 正寛  
     
     

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