缶ピース。

缶ピース。

  2019/6/3  
     
 

 

行きつけのワインバーが店を閉じた。

 

ある人に紹介され、店に行くようになって10年になる。

 

5坪ほどのカウンターだけの小さなその店には、接待の帰りなど、ひとり静かに飲みたいときにふらりと寄った。

 

時間が静かに流れるその空間に身を置くと、そのときだけは、日々の喧騒から逃れられた。

 

 

 

今年初め、店主が突如、ぽつりとつぶやくように、

 

「あのね、ハヤシさん、新しい時代にはうちの店はもうないから」

 

― なにを言いやがる。カッコつけやがって。

 

話し半分であまり相手にしなかったが、本当に4月一杯で店を閉めてしまった。

 

 

ワインは、銘柄を言わなくても勝手に出てきた。

 

ボトルの半分くらいを店主が飲んでしまうのもしょっちゅうで、そんなとき、勘定は割り勘になった。

 

店主は、私が喋るまでよけいなことは一切言わなかった。

 

私が来ると何も言わずに、ヘレン・メリル(ニューヨークのため息と言われた女性ジャズシンガー)をかけてくれた。

 

店主はヘビースモーカーで、5坪ほどしかない店の一応隅に行き、フィルターのない両切りの缶ピース(タール28㎎.)をパカパカ吸っていた。

 

店主は、日本酒が大好きで、客が来ないとみると店を開けたまま近くの居酒屋に行き、ひとりチビチビ日本酒を飲んでいた。

 

 

 

 

行けば必ずあったその場所に今はない。

 

 

いつか終わる。

わかってはいるけど、まだ慣れない。

 

 

3月、4月は公私ともに大忙しで、結局、店に行くことができなかった。

 

― 別れとは、こんなものか…。

 

 

 

 

缶ピースの煙の香りがもはや懐かしい。

 

 

 

   

 

 

 

  林 正寛