レクイエム。

レクイエム。

  2019/12/3  
     
 

 

私が新卒で入社した会社に当時、代表取締役社長として君臨していたKさんが今年、亡くなられた。

 

Kさんは、東大卒で日本興業銀行に入行され、エリート街道を歩んでこられた方で、威厳があり、凛としたその姿に、当時、世間知らずで青二才の私は、憧れと近寄りがたい恐怖を感じていた。

 

しかし、エリートは、取引先の社長たちには、どこまでも姿勢を低くし、相手の話に耳を傾け、「さすがだね」を連発。そして、帰るときには、軽く手を挙げて「じゃあ」、がスタイルだった。

 

 

私が入社2年目のころ、取引先とのゴルフコンペの世話係によく駆り出されたが、普段は東京本社にいるKさんを近くで観察することができる唯一の機会を私は密かに楽しんでもいた。

 

あるコンペの際、ボードに参加者の成績をマジックで書いていると、背後からKさん。

 

「君、名前は」

 

「大阪支店の林です」

 

「林君か。君は字がきれいだね」

 

「あ、ありがとうございます」

 

感動して、手が震え、以後、きれいな字を書くのに苦労した。

 

Kさんとは、後にも先にもそれっきりだった。

 

 

それから数年でバブルが崩壊し、世の中が一変した。Kさんは、特別背任罪で逮捕拘留され、エリート街道から転落し、すべてを失った。会社は倒産し、社員は濁流に飲み込まれた。

 

 

 

そして、会社の倒産から17年くらい経ったときだろうか。

 

私はすでに今の会社を経営していたが、ある人の紹介でKさんと食事をする機会を与えていただいた。

 

Kさんは、私が当時の社員であったことを聞かされていたのだろう。

もちろん、Kさんからすれば、大勢いる社員の中で私の記憶はないだろうが、私に向かい、「迷惑をかけたね」と丁寧に頭を下げられた。

 

私は、言葉が見つからず、「林と申します」と名乗るのがやっとであった。

 

その席でのKさんは、凛とした姿勢はあのころと変わらず、政治や経済のことについて熱く語っておられた。自分の立場や境遇を恨むでもなく、卑下するでもないその態度は、さすがだった。

私は終始、正座を崩せなかった。

 

 

食事のあと、私はKさんをホテルまでお送りした。

 

ロビーに着くと、これまたあのころと変わらない颯爽とした立ち姿で、「じゃあ」と軽く手を挙げ、背中を向けたKさん。

 

ところが、Kさんは、なにかを思い出したように「ああ、そういえば」と振り向かれ、驚きの言葉を口にされた。

 

そのときの言葉を私は忘れない。

 

 

 

 

  

 

「林君、そういえば、君の字はきれいだったね」

 

  

 

 

   

 

 

 

  林 正寛