雑草の都合。
2016/11/22 | ||
金曜日の午後、遅めに会社を出て、島根県にある実家の墓参りに向かった。
我が家の墓は、山林の一部を切り取って平坦にした、町が一望できる一等地(?)にあるが、その山林には、昼間でも薄暗くうっそうと茂る樹木の間から、大小さまざまな墓石が点々と顔を出しており、中にはもうほとんど崖地のようなところにあるものもある。
墓地としての雰囲気は上クラスで、ここで肝試しをやればまず、まともには帰って来られないだろう。
高齢の父と母は、細くて急な坂道を登ってお参りすることはもはやできず、よって、ここ数年は、私が年に数回、掃除を兼ねてお参りする。
夏場は特に、猛暑の中、蚊やアブ、ヘビ、トカゲなどと格闘しながらの草取りは骨が折れるが、日ごろの反省と心の浄化だと思い、また、これはご先祖が私に与えた試練であり、これを乗り切れば何かきっと良い事があるに違いないと、煩悩に満ち溢れた頭で自分に言い聞かせながら黙々と雑草を抜く。
ただ、毎回、この雑草には難儀する。
抜いても抜いてもまた、生えてくる。除草剤を巻いても巻いてもまた、生えてくる。
しかし、“やれやれ、またかよ”と思いながら抜くのは人間の都合であって、雑草側にも都合や言い分はあるだろうとも考える。
雑草だってこうやって生きているんだ。おそらく、悪気や悪意はない。 中国自動車道を降りたところで日が落ちた。
そこからは、街灯ひとつない真っ暗な曲がりくねった山道を、ヘッドライトで闇を切り裂きながらクルマを走らせる。クルマが走り去った後はまた、何事もなかったようにスーッと深い闇に包まれる。
そんな中、たまにポツリと薄明かりの灯った民家が現れることがあるが、こんな山深い里でホントに人間が暮らしているのだろうかと疑いたくなる。
“人間の格好をしているだけで、実はキツネやタヌキだったりして”
なんて考えながらクルマを走らせていると、ヘッドライトの向こうをタヌキが一匹横切った。
やっぱり、ここではキツネもタヌキも人間の顔をして平然と暮らしているのだ。コーン!
夏のときほどではないが、今回も雑草は雑草の都合でまた、生えていた。
私は私の都合でせっせと抜く。
「雑草という名の草はない。それぞれの草に名前があり、それぞれに生きている」
昭和天皇が語られたこの言葉に勇気をもらった若き日のことを、オモイダシナガラ。
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林 正寛 | ||