気が付けば青春。
2014/11/21 | ||
ジャーナリストの田原総一朗氏80歳が、高校時代の同級生の女性と熱烈恋愛中であることを取材で打ち明けた。
本人自らが「私、恋愛しています」と打ち明けるケースはまれだし、そもそも恋愛などというものは、当事者同士のココロの問題であり、世間(他人)に向かってしゃべるようなものではないと思うが、よほど嬉しかったのだろうか。
多くの経営者を惹きつけてきた米国の詩人サミュエル・ウルマンの「青春」にある。 「青春とは人生のある期間ではなく、心の持ち方を言う。年を重ねただけで人は老いない」
これを松下幸之助は自分流にこう意訳して、座右の銘にしていた。 「日に新たな活動を続ける限り、青春は永遠にその人のものである」
松下幸之助だからこそのセリフだとも思うが、世の経営者にして「日に新た」は永遠のテーマである。
「ねばならない、あるべきだ」と、船底に大量のカキ殻がこびりついてスピードが落ちていることにも気が付かず、固定観念にバリバリ縛られた毎日を送っている経営者は多い。
仕事に限らない。
帰宅して、家人のヘアースタイルが変わったのも気が付かず、いつもの「風呂、飯、寝る」を黙々とこなし、翌朝になっても気が付かず、それが原因で家人の機嫌が悪いのにも気が付かず、「どうした風邪か?薬飲めば」と自爆する。
一緒に買いに行ったコートを着ているのにも気が付かず、「君、それいいね。どこで買ったの?」と地雷を踏む。
「気が付かない」というのは、ものを感じ取ることができないさまであり、気が回らない、見落としている、または目に入らないことであり、状態としてはかなり良くない。
サミュエル・ウルマンのいう「心の持ち方」とは「気付く」心を持つ、何事にも頓着するということであろう。
仕事も恋愛も家族とのふれあいも、気付く心があれば「日に新た」に結びつき、その状態が続いている限りは、「青春」というわけだ。
自分の心に対してもそうだ。自分がだれかに恋をしているという自分自身の心に気が付かなければ、恋愛に発展はしない。
田原総一朗氏は、そうした自分自身に気付き、また、相手の女性の想いを感じとるフレッシュな心を持っておられるのだろう。それはたしかに「青春」かもしれない。
しかし、性格の問題というか、得手不得手もあるだろう。考えてみれば、私は気が付かないことにかけては天才かもしれない。
いや、待てよ。 気が付かないことにかけては天才かもしれないということを、今、このブログを書きながら「気が付いた」
― バカみたい…。
私の「青春」は、地平線のはるか彼方に沈んだままだ。
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林 正寛 | ||