この世で一番こわいもの。
2015/02/02 | ||
1月がもう終わった。 年末年始がずいぶん昔のことのように思える。
年があらたまったからといって、昨年のことがリセットされるわけでもないが、それにしても、昨年からの流れをそのまま引きずっているかのような、嫌な事件が1月は多かった。
「およそ人の仕業だとは思えない」 「非人道的だ」
しかし、残念ながら、すべては人の仕業である。 危険運転をしたり、子どもを虐待したり、陰湿ないじめを繰り返すのも人である。
では、自分はどうなのか。 「当たり前じゃないか、私が人を傷つけたりするもんか」
誰だって建前はそうだろう。 しかし、誰もが人には言えない本音の部分は持っているし、案外、自分でも気が付いていない「自分」があるのかもしれない。
世の中のほとんどは建前でできていて、人は自分の中にある短気でぐうたらでスケベな本音を出さないよう、うっかり出てこないように注意しながら暮らしているだけである。
ただ、我を見失わず、道すじを立てて概念的に物事を判断し行動する能力を「理性」というが、そのつっかえ棒を外すことなく毎日を過ごすのはとても困難なことであるにもかかわらず、人はまた、それを難なくこなせる能力も潜在的に持っているのである。
最近の事件を見て思うのは、家庭や教育環境、社会の風潮などの変化によって「情」が希薄になってやしないか、そのために、「つっかえ棒」が外れやすくなってやないかということ。
「情」、つまり他人を思いやる心、他人の痛みをわかる心が無くなれば、他人はどうなってもいい、自分さえ良ければいいという感情に支配されてしまい、理性を保とうとする根拠も行き場を失う。
だから、子どもの頃の情操教育はとても大切なことであるし、「三つ子の魂百まで」とは、よく言ったものである。
私はブログで、「風情」や「情緒」という言葉をよく使うけれど、これが今、まさに世の中に欠乏しているものだと思う。
便利ならいい、安ければいい、お得ならいい…。今のこの風潮からでは、「情」はまず生まれてこないだろう。
なぜ「情」が生まれてこないのか。 この風潮の根っこに「他人」は存在しない。自分さえよければいいという考え方がベースになっているからである。
ちっきしょー、こんな世の中にしたのは誰なんだ。 そういえば、子どものころ母が言っていた。 「鬼はね、この世で一番怖いものの姿かたちをしているのよ」
鬼は外、福は内。 鬼は外、福は内。 鬼は外、福は内。
節分か。 ああ、風情があってイイナ…。
春よ、早く来い。 日本に来い、世界中に来い。
人の冷たい心を温めてくれ。
頼むから…。
|
||
林 正寛 | ||