カレンダーをめくるということ。
2013/04/10 | ||
先日、テレビ番組で、脳梗塞や脳動脈瘤といった脳血管の疾患に対し、カテーテルを使った血管内治療の分野を切り開いてきた脳神経外科医のことをやっていた。
動脈瘤のコブの内部にコイルをぐるぐる巻きに挿入して、血流を止めて破裂を防ぎ、血管内に血液が凝固する液を注入して、凝固後、頭のてっぺんから取り出す。 神業に近い。
患者の家族に対しては、「自分が責任者である。任せて欲しい」と胸を張り、安心させるが、患者の命と家族の人生を預かる責任は重大で、しかも結果がすべてである。
番組に登場していた60歳代の女性。検査で動脈瘤が見つかったという。 40歳代の男性は、くも膜下出血で意識不明の状態で運ばれてきた。 動脈瘤奇形の20歳代の女性は、まさに一か八かといった状況のオペに臨んでいた。
こういうのを見ると、「死」は「生」と隣り合わせにあり、いつも至近にあることを思い知らされる。
私は仕事柄、相続財産管理事件などでは、亡くなられた方がついこの前までここで普通に暮らしていた現場を目の当たりにする。
タンスにベット、テレビ、テーブル、歯ブラシやコップもそのままである。 洗われた食器は水切りカゴの中で主の帰りを待っているかのようでもある。 室内に広がる「生」の証拠の中で、「死」のアリバイは、めくられていないカレンダー。主を失い止まってしまった時間をあらわす。
私たちはやはり、生かされているんだとつくづく思う。 ただ、毎日、当たり前に過ぎていく時間の中でそれを実感することは難しい。 そればかりか、困難なことがちょいちょい向こうからやってきて、そして、人は悩み、失望し、時には死んでしまおうかと考えたりする。 困難なことも生かされている証なのに…。
そして、カレンダーをめくるということ。
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林 正寛 | ||