なにかいいこと。
2014/08/11 | ||
うちの会社には日めくりのカレンダーがあって、毎朝、それをめくる。
日めくりカレンダーというのは、なんだか古臭い感じがするし、あまり好みではないけれど、いただきものであるということと、めくらずにどこかの日付のまま止まっていたりすると、なんだかそこで時間が止まってしまっているようで軽い恐怖を覚える。
だから、毎日、めくる。
そして、日めくりのカレンダーのすぐ横に飾ってある、今年1月の「えべっさん」のときに堀川えびす神社で買った、今は枯れてすっかり茶色くなった笹に向かって頭を下げる。
「商売繁盛」の神様ではあるが、神様側の業務のことは軽く無視して、家族の安全や健康、家人の機嫌が良いことなどの「私にとっての平和」をお願いする。
朝、現場に直行した日などはカレンダーをめくることさえ夕方まで気が付かなかったり、その程度のことではあるが、この毎日の行動を、「なにかいいことはないか」、「悪いことが起きなければいいが」と願う心の拠りどころに、どこかしているところはある。
特別信心深いわけではなく、宗教めいたものにも一切興味はないが、日常の中で、手を合わせたり、頭の中で願ったりする機会は案外多い。
外出ついでに「えべっさん」にお参りすることもあるし、「大阪天満宮」は昼食のついでにたまにお参りする。
また、いかにも子どもっぽいが、虹を見て幸せを祈ったり、昔、誰かにアゲハチョウを見るといいことがあると聞いたことがいまだに頭から離れず、アゲハチョウを見かけると「なにかいいこと」を祈ったりする。
初詣は恒例だし、流れ星や七夕にだって思いを寄せたりする。
完全に「困ったときの神頼み」で、普段はすっかり「神」の存在を忘れているという実に都合のいい話ではあるが、ただの習慣であったとしても、手を合わせることが、「なにかいいことはないか、悪いことが起きないように」と祈る心のつっかえ棒になっていることは否定しない。
来週、墓参りに出かける。
お墓もむしろ、必要としているのは残されたものであり、残されたものが亡くなった人への哀惜の念や自身の来し方行く末を思い、自分に折り合いをつけるために手を合わせるのではないだろうか。
私の場合、どうもご先祖様に会わせる顔がなくて、毎年、謝罪のためにお参りするようなものであるが、こんな私でも、こうやって生かされていることに感謝の思いしかない。
そしてまた、都合よくお願いをしたりする。
「なにかいいことがありますように」
|
||
林 正寛 | ||