きまじめ。
2014/06/02 | ||
「まじめ」を辞書で引くと、嘘やいい加減なところがなく真剣であること、本気であること、誠実であることとある。
つまり、私のような人物のことをいう…。
と書くと、嘘だろう、まじめにやれと言われる。
本人はいたってまじめなんだが、なかなか相手に伝わらない。
そもそも人間の性格なんて自分で説明するものではなく、相手が受け取るものであるから、「私ってまじめなんです」と言ったって、そう易々と信用してはもらえないし、言えば言うほど逆効果になってしまう。
しかし、私は、人として「まじめ」くらい美しいものはないと思っている。
だから私はどう言われようとも、常に「まじめ」でありたいと思っている(思うのは勝手だからね…)。
ただ、「まじめ」は行き過ぎると自分の殻に閉じこもり、思考の範囲を狭めてしまい、「融通のきかない堅物」として批判の対象になることがある。
「きまじめ」とか、言葉は悪いが「くそまじめ」というやつだ。
しかし、この人は、誰に何を言われようが、自分の信念、スタイルである「きまじめ」を貫きとおし、相撲協会の危機を救った。
作用が強ければ反作用という揺り戻しも大きくなる。
身内に対してやり過ぎではないのかとの批判もあったが一切受け付けず、徹底的に糾弾し力士らを大量に処分した。
私は以前ブログに、自分は十分に勝ち越している時に、今日負ければ十両や幕下に転落する、生活の危機がやってくるといった境遇の相手と対戦する場合、過酷な世界に生きる者同士の「配慮」や「譲る気持ち」はあって当然だと書いた。
協会はもちろん、見る側もそれも興行の一つだと理解してやらないと、いくら勝負の世界だからと言ってもあまりにも殺伐とし過ぎてしまう。
白星に対して金品を要求したり、白星を仲介したりする「八百長」行為は断じて許されないが、それとこれは区別する必要があると私は思う。
しかし、この人はその区別も許さなかった。
さぞや揺り戻しは大きかったことだろうが、屈せずに乗り切った。
その姿は、大関を陥落しても不屈の精神で再度昇進を果たし、一日たりとも休場することなく真摯な土俵態度を貫いた現役時代と同じだった。
昨年2月に65才の定年を迎え、ようやくこれからというときの急死。 無念が残る。
元大関の魁傑で放駒前理事長の西森輝門さん。 お疲れ様でした。
今頃は、元大関の先代貴ノ花とあの世で相撲談議でしょうか。
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林 正寛 | ||